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東京高等裁判所 昭和53年(う)542号 判決 1978年9月19日

被告人 高橋輝夫

主文

原判決中有罪部分を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人須賀貴が差し出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書にそれぞれ記載してあるとおりであるから、これらを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。

所論は、事実誤認の主張であつて、要するに、原判決は、本件犯行当時被告人は心神耗弱の状態にあつた旨認定しているが、被告人は当時精神分裂症の病的過程の進行中であつたうえに、過度の飲酒による複雑酩酊の状態にあつたものであり、心神喪失と認めるのが相当である、というのである。

そこで、原審記録を精査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して、所論の当否を検討すると、記録によれば、本件公訴事実第一は、昭和五一年八月二一日の国鉄上野駅ホーム階段上における通行中の女性に対する傷害の事実であり、同第二は、同年一二月七日の国鉄高崎線進行中の電車内における女性乗客二名に対する各傷害の事実であるところ、原判決は、証拠により右各公訴事実をすべて認めることができるとしたのであるが、第二の犯行については、「被告人の犯行時の精神状態は、精神分裂症の病的過程の進行中の上に、過度の飲酒による複雑酩酊の状態にあつたと考えられる。」旨の鑑定人阿部完市医師の鑑定結果を根拠として、被告人は犯行当時心神喪失の状態にあつたものと認定して、被告人に対し無罪を言い渡し、他方第一の犯行については、右鑑定結果にもかかわらず、心神喪失とまでは認められないが、少なくとも心神耗弱の状態にあつたものと認定して、被告人を懲役四月(二年間執行猶予)に処したことが明らかである。

ところで、関係証拠によれば、本件第一の犯行及び第二の犯行は、いずれも国鉄の駅又は電車内で、特段の理由もないのに突然女性に暴行を加え傷害を負わせたもので、動機も犯行態様もほぼ同一であり、犯行時点も三か月余の違いがあるだけであることが明らかであり、また、阿部完市作成の鑑定書、家近一郎作成の診察結果報告(二通)、内田重次の司法警察員に対する供述調書、埼玉県衛生部長作成の回答書、島崎朗作成の診断書、原審第五回公判調書中の証人阿部完市の供述部分、当審証人阿部完市、同家近一郎に対する受命裁判官の各尋問調書によれば、被告人の犯行時の精神状態につき、前記鑑定人阿部医師は、前記第一及び第二の各犯行を通じ前記のとおりの内容の、また以前から被告人を診察していた家近一郎医師は、第二の犯行につき、「飲酒により発生した一過性の幻覚妄想状態」にあつたとし、さらに第一の犯行についても「一過性に妄想があらわれた疑いはある」という判定をそれぞれしており、その判定内容に差異はあるものの、各犯行時の精神状態はほぼ同じで特段の差異はないとする点において右両医師は一致しており、事実はおおむねそのとおりであつたこと、家近医師は第一の犯行の直後作成した診察結果報告において精神分裂病という判断をせず、飲酒による幻覚妄想状態としか判断しなかつたが、それは、同医師が最初に被告人を診察した昭和五〇年二月(本件各犯行より以前)には、精神分裂病の疑いがあると診察し、その結果被告人は精神衛生法に基く措置として同年二月二五日から埼玉県本圧市所在の上武病院に入院し、同年八月三〇日に退院したが、右退院時の診断名が単に「アルコール中毒」とされていたため、以後同医師は被告人について精神分裂病という判断をするのを意識的に避けていたからであり、また起訴前で時間的制約もあつて被告人の過去の入院歴、病状等につき調査をする余裕がなかつたためであること、被告人は、右上武病院入院の以前昭和四六年三月二七日精神分裂病、酒精嗜癖の病名で広島県東広島市所在の西条精神病院に入院し、昭和四七年二月七日退院したが、同年六月二四日から昭和四八年六月一五日まで再び同病院に同病名で入院加療したことがあること、また同病院退院後昭和四九年七月から埼玉県上尾市所在の内田建設株式会社で土工として勤務していたが、同年暮ころ酒に酔つてタクシーの釣銭を持ち逃げしたり、昭和五〇年初めころ酒に酔つて近所の自動車を勝手に運転したり、同年二月七日本件と同様国鉄の電車内で女性乗客を理由もないのにいきなり殴打するという挙動に出たり(その結果、前記の上武病院に入院)したという行動歴があること、本件第一の犯行の際も、第二の犯行時と同様、被告人は平素の酒量を上廻る飲酒をし相当な酩酊状態にあつたこと、そのため、ことに第一の犯行の際には、被告人は、前を降りて行く女性を見て、その女性が自分の進路を邪魔しているように思い、だれかが「この女は悪いやつだ」とささやいているような声が聞えたとしていること、阿部医師は、被告人の右の入院歴・行動歴ののみならず、家族歴・生活歴・病状経過・本件各犯行の経過及び態様・身体的所見・精神医学的所見・鑑定時現在の精神状態等を詳細に総合検討したうえ、前記鑑定結果のとおり鑑定したものであること、したがって、事実はおおむね前記鑑定結果のとおり、すなわち、被告人は本件各犯行当時精神分裂症の病的過程の進行中のうえ、過度の飲酒による複雑酩酊の状態にあつたものであることが認められ、右認定の事実によれば、被告人は本件第二の犯行当時だけでなく第一の犯行当時も、自己の行為の是非善悪を弁識し、かつ、これに従つて行動する能力を失つていた、すなわち、心神喪失の状態にあつたものと認めるのが相当である。

原判決は、被告人の責任能力に関する弁護人の主張を排斥するにあたり、本件第一の犯行の動機は通常人のいささか了解し難い点はあるもののいまだ了解可能の限度を超えたものとは認められない旨説示しているが、原判決が右動機として認定しているところは、要するに、被害者が被告人の進路を邪魔しており、「この女は悪い女だ」とだれかがささやいているように思われたというのであつて、一般には了解し難いところといわざるを得ず、当審における被告人の供述をみても、「女の人(被害者)が自分の前途を邪魔するように思われた」「前途を邪魔するというのは、自分が電車でどこかへ行こうとするのを邪魔するというだけでなく、それを含めて自分のするあらゆることを妨害するということである。」というのであるから、犯行の動機を了解可能の限度内にあるものということができないというべきであり、また、原判決は、被告人は本件第一の犯行前後自己の周囲の状況に一応沿つた行動に出ており、かつそれをかなり詳細に記憶している旨説示しているが、前記阿部医師の原審及び当審における各供述によれば、精神分裂病に罹患していても記憶力が全くなくなるわけではなく、また周囲の状況に一応沿い合理性があるように見える行動も、被告人の場合は必ずしも合理的判断の結果であるとはいい難いのであるから、原判決が説示する点は、いずれも心神喪失の主張を認容することの妨げとなるものではない。

以上検討したところによれば、結局、原判決は被告人の犯行時の責任能力に関し事実を誤認したものであり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄を免れず、論旨は理由がある。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、昭和五一年八月二一日午後一〇時五〇分ころ、埼玉県上尾市柏座一丁目一番一八号国鉄上尾駅一番ホームC階段上において、通行中の田藤英子(当時三五年)に対し、その背後から足払いをかけて同女をその場に転倒させる暴行を加え、よつて、同女に対し全治約一〇日間を要する腰部・左足関節打撲の傷害を負わせた。」というのであり、原審において取調べた証拠並びに当審における事実取調べの結果によれば、被告人が右公訴事実のとおりの犯行を犯したことを認めることはできるが、前記のとおり、被告人は右犯行当時心神喪失の状態にあつたものと認められるので、刑法三九条一項により右公訴事実は罪とならないことに帰するから、刑訴法三三六条前段により被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 向井哲次郎 山木寛 中川隆司)

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